▲四條畷神社の階段前、大鳥居だ。 頑張って上ろう!!

父の意志を継いで戦った
くすのきまさつらを祀る神社

忠義の武将を尊崇し 地元民が協力して創建

四條畷神社の御祭神・楠正行(くすのみ まさつら)公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、不利を覚悟で南朝側に立って戦った武将、楠正成公の嫡男です。明治以降、父は大楠公、息子は小楠公と呼ばれ、親しまれました。
正成公は最後の戦いとなった湊川(現神戸市中央区)に出陣する際、桜井(現大阪府三島郡島本町)で遺言します。「父の死後は足利の天下となるだろうが、どこまでも正統の天皇をお守りせよ。それが父への孝行となる」と。これが有名な"桜井の別れ"です。
▲楠父子の「桜井の別れ」の石像
父の死後、後を追って自害しようとした正行公でしたが、母に諭されて奮起。十三回忌を終えると挙兵し、足利尊氏が仕向けた軍を撃破します。しかし、四條畷で高師直・師泰の大軍と戦って惨敗し、弟の正時光と刺し違えて自刃したのです。
明治になって、地元の神主たちが神社創建を嘆願。明治二十二年(一八八九)に現在地に創建の勅命が下り、四條畷神社という社号が下されました。地元民は大変喜び、金品の寄進や労力奉仕を惜しまず、翌年、見事な社殿が完成し、鎮座祭が執り行われたのです。
▲四條畷神社の社殿
▲社殿正面の鳥居は平成2年の鎮座100周年に際し、伊勢神宮から贈られたもの

心落ち着く小楠公御墓所

飯盛山麓の緑に囲まれた四条畷神社の境内はいつも清気に満ち、桜の春、紅葉の秋は見事な景観を広げます。その参道を下り西へ約一キロの所にあるのが、正行公が眠る小楠公御墓所です。大碑石と大木が静かに佇む伸びやかな空間で、幹回り十メートル以上もある大木は、正行公埋葬時に設けられた小碑の両脇に植えられたクスノキが、碑を包み込んで一株のように成長したもの。樹齢は六百年近くで、大阪府の天然記念物に指定されています。
▲墓所に緑樹を広げるクスノキの大木
堂々たる大木が重ねてきた年月の遙かさや、波乱にとんだ日本の歴史に思いを巡らしながら、あわただしい日常を忘れ、ゆったりとした気分を味わいたいものです。
▲小楠公御墓所の大碑石は、明治11年に建立されたもので、大久保利通自筆の銘が刻まれている。
とっておき話!

●謎をはらんだ楠公慰霊塔

四條畷神社には、正行公を主神に弟の正時公以下24柱が祀られ、賢母の高い母を祀る御妣(みお)神社もあります。そして、父にまつわる楠公慰霊塔は、豊中の山林で偶然に発見された古い塔で、平成3年に移設されました。

●四條畷神社とJR片町線

現在は学研都市線と愛称されている片町線。もともとは四条畷神社等への参詣鉄道として、明治28年(1895)、浪速鉄道が片町駅-四條畷駅間を開業したのが始まりです。
有化後の昭和7年(1932)、同駅間は関西の国電区間で初めて電化され、昭和54年(1979)には、片町駅-長尾駅間の各駅に関西の国鉄線で初めて自動改札機が設置されました。

●正行公の慈悲の逸話

正行公は瓜生野(うりうの)(現平野区瓜破西付近)の戦の際、敗走する多数の敵兵が渡辺橋(現中央区天満橋付近)から落ちて溺れているのを見て救助を指示。寒さに震える彼らに衣服を与え、傷の手当てをし、休養させて京都に送り返しました。

蛮勇がもてはやされた時代にあって、敵味方関係なく慈悲深い博愛精神を発揮した正行公。救助された敵兵の中には四條畷の戦で楠がわにつき、共に討ち死にして御恩返しをした者もいたとか。

正行公の行為は、明治時代、西洋の赤十字精神が日本に入り、受け入れられる礎となりました。
データ
四條畷神社 しじょうなわて じんじゃ
【心願成就】
朱印時間 9:00~17:00
四條畷神社のホームページ
大阪府四條畷市南野2-18-1
☎072-876-0044
最寄り駅⇨四条畷駅(JR)東出口の進行方向の階段を降り線路沿い直進しマクドナルドを右折直進[徒歩15分]
MAP

四條畷神社周辺のスポット